修道院の窓から

清貧の考察物語

5 月連休のある朝食の席で、M 姉妹が「昼食の当番だけど、何にしようかな?」と仲間に質問を投げかけました。連休中は半分の姉妹たちが会議で留守だったため、いつもよりはのんびりムードで過ごしていました。また 6 名の姉妹中 5 名は東北出身の者たちとあってか「簡単でいいよ、納豆ごはんが食べたい!」「そう、納豆と缶詰の魚でいいね。」の反応に続き、「それでは、せめてデザートにいちごを頂くのはどうでしょう。」という決定に至りました。

日曜ミサ後、昼食当番が準備した昼食に集まった姉妹の反応―

「あれ?いちごがないね。納豆もないし…」食卓にはいちごの代わりにカリフォルニアオレンジが、缶詰ではなく既製品の揚げ物が姉妹一人に 1 個ずつがならんでいました。

M 姉妹の答えはこうでした。「いちご 1 パックは 498 円で、あんまり高価だと思い 98 円のオレンジにしました。家にある缶詰でなく揚げ物を買いました。」なるほど、一人ひとりにはいろいろな考え方があるものです。たまに食事当番になり、食材を購入するときはこうして、個々人の思いが表現されるのです。M 姉妹には 498 円がとても効果に感じられ<“清貧”の生き方にそぐわない>と感じられたようです。

そこで様々な意見が述べられました。普段台所の責任者の姉妹は「私たちは、もっと高価な果物を知人から頂くことがあるのです。いちごは前に食べたときは 500 円を超えていたのに、それで今は 500 円以下になって 2 パックでも 1,000 円でおつりがくると言って上げたではないですか?」

遅れて食堂に来た姉妹も「あら?いちごがない!」の期待外れの声に上記の理由が繰り返されました。そして「カリフォルニア産のオレンジを買ってアメリカに利益が行くよりも、国内の生産者の利益になることも大事でしょうに…」の意見が出て様々な視野から考えることを再認識しました。

修道生活の清貧の中には<貧しさは物ではなく、各自の両親が大切だから、争いや裁くことではない。イエスの清貧は多様的で私も使用に関して自由な裁量ができ、必要な時(お金、時間、体を使うこと)は全部使えるか、イエスの貧しさの特徴であるへりくだり、検挙、父への従順に倣おうとしているか?イエスの貧しさの印、喜びと奉仕、奉仕に伴う苦しみ、忍耐不自由さを受ける姿勢は?>などの意味を再確認したことでした。

2018 年 6 月