修道院の窓から

痛みがわかる心

ある日、うっかり腕にアイロンがふれて、6センチほどの赤いすじができ中央は水泡になってしまいました。大やけどの経験がある私にとっては、かすり傷のようなもの・・・とみなし手当もせずにいました。その状態はなんら仕事に支障もなかったのですから。

そんな具合で産後のある母親のところを訪室したとき、面会にきていたお子様二人がかわいらしい指を私の傷に向けて「あっ、あっ、あっ!」と叫びました。白い小さな歯がのぞいている口もとがとても可愛いのですが、表情は真剣でつらそうでした。子どもたちは私の腕の赤い部分をめざとく見つけ「あ〜、痛いんでしょ、かわいそうに・・・」と同情を表現しているようでした。“やけどをしたんだよ。痛くないから心配しないでね。”と声かけをすると、「うん、やけど・・」といって安心してくれたようでした。

きっとこの子ども達も何らかの痛みの体験があったので、他人のことを思いやることができたのでしょう。こんなことを考えると、不幸、苦痛と考えられる体験も人の心を成長させてくれるものとなります。共感,同情、あわれみの心を学ぶことになります。そして、この子どもたちのように素直に他人の気持ちにより添うよう、促され表現できたら人間関係はとてもスムースにいくのではないだろうか・・と考えさせられました。

イエス様が人間のなかに住まわれたことの意味も想い返します。「両親に仕えてお暮しになった、知恵が増し背丈ものび・・」のことばは、当時の人間が味わうあらゆる体験をなさったという含みがあったと思います。喜び、悲しみ、痛み、いきどおり等等の感情、生活上の満足感や不便さも。イエス様は大工の子といわれ、ヨセフ様と一緒に働いたろうともいわれますが、ある時、私たちが考える大工ではなく、“石工”を意味したそうで、重い石をかついだり砕いたり、ほこりまみれになる仕事だったという解説を聞きました。汗水流して日々の糧を得る人々の真ん中に生きられたからこそ、人びとの貧しさや困難、痛みも完全に理解し共感することができたのでしょう。

自分が高齢者になってもまだまだ未熟であるという痛みを感じながら生きています。日々、職場で出会うお母さん達に、時には十分より添うのが難しく感じることがあるからです。自分中心でなく相手の気持ちを、よく受け止め傾聴する人になりたい、特につらさを抱えている時は心を支えられるようになりたいと聖霊の助けを願います。

2016 年 9 月