キリシタン大名 高山右近と前田氏。利家の庇護受け金沢に。利長の命で金沢城を修復

日本、ヨーロッパと出会う

マルコ・ポーロが「黄金の島」として、ヨーロッパに紹介しながら、 ヨーロッパ人にとっては長い年月「幻の島」であった「ジパング」は 1543(天文12)年にポルトガル人が種子島に漂着したことによって、実在のものとなった。 その後、ヨーロッパ船の日本来航と日本人の東南アジア、ヨーロッパへの渡航が盛んになり、 日本人の視野は唐(中国)・天竺(インド)から世界に拡大していった。 日本へやって来たヨーロッパ船は、貿易の利益を目的としたものであったが、 彼らとともにやって来た宣教師の布教の心は、激しく燃えていた。 当時のヨーロッパ社会では高位聖職者が世俗権力と結び、腐敗していたので、 そのことを断罪したルターにより、新旧教徒が争い、ヨーロッパは混乱していた。 その中にあって、深い霊性をもって、フランシスコ・ザビエルは東洋布教に向かった。

1549(天文18)年、フランシスコ・ザビエルとその一行は鹿児島に上陸した。 それに引き続いて上陸してきたイエズス会士は、当時の戦国大名から布教の許可を受け、領民を教化していった。 その中で高山右近こそ、外国人宣教師の保護者として活躍し、また宣教師の伝えるキリスト教を完全に体現できた霊性豊かな人物であった。

織田信長と高山右近

右近は摂津(大阪)高山に1552(天文21)年頃生まれた。 12歳頃に洗礼を受け、ジュスト(義人の意)の霊名を受けた。 この洗礼は父、高山飛騨守の意向によるものであったが、右近が成人すると、 信仰者であることと領主であることの板ばさみになって苦しむ試練が待ちうけていた。

本願寺側と手を結んだ荒木村重に子供や妹を人質に出していた右近の下へ、 織田信長は、高槻城を開城しなければ、郡の宣教師をすべて殺すと言ってきた。 右近は、人質の身を案じて頑として荒木村重を支持し続ける父をそのままにして、 高槻城主であることを捨て、武士を捨て、紙子一枚を着て城を抜け出し、 死を覚悟して信長の下におりたのである。右近26歳のことであった。 信長の下に全てを捨てた右近だったが、事態は好転する。人質は助かり、 再び高槻城主として活躍する場が信長によって与えられたのである。 この後、約10年間ほどはキリシタン大名として名実ともに活躍した。 安土城下でセミナリオ(神学校)の設立に尽力し、高槻の領民の教化に務め、 貧しい人の葬儀の先頭に立つなどしてキリスト教精神の「愛」を実践した結果、領民の7割がキリシタンになっていた。

豊臣秀吉と高山右近

1587(天正15)年6月の豊臣秀吉の禁教令により、右近は最終的に追放者の身となる。 前田利家は秀吉の態度が軟化してきた頃をみはからって、右近について 「武勇のほか茶湯、連歌、俳諧にも達せし人である」といって、とりなした。 利家からの招きを受けた右近は「禄は軽くとも苦しからず、 耶蘇宗の一カ寺建立下されば参るべし」との条件を出し、利家もそれを受け入れた。 こうして右近は、その家族とともに前田家お預けの形で金沢へ下った。 1588(天正16)年晩夏の頃であったろうと言われている。

加賀・能登で働いた 26 年

右近が金沢で最初に住んだのは、「金沢古蹟誌」によると、 現在の金沢市広坂1丁目、「金沢21世紀美術館」の敷地であった。 1599(慶長4)年、右近の恩人である利家が亡くなった。 利家は死に臨んで、右近の忠誠をたたえ、2代利長に対して右近を大切にするようにと遺訓を与えた。 利家亡き後、徳川家康による利長謀反の中傷のなか、 右近と横山長知が大坂の家康の下に弁明に出かけたが、家康は右近に会おうとはしなかった。 家康は右近について「右近麾下千人は他の何人の部下の一万人にも優る」と言っていたからである。 大坂から帰った右近は利長の命を受けて、金沢城を修築し、27日間で新丸を築城、尾坂門を大手の正面にし、 東西内惣構堀を掘らせて浅野川に注ぐようにし、城の防備を完全なものにした。 今も東西内惣構堀の遺構が所々に残っている。

利長は、1590(天正18)年に自ら宣教師に洗礼を望んだほどであったことから、 家臣にキリシタンになることを勧め、右近の教会設立やヨーロッパ宣教師の常住を認めた。 金沢はもちろん能登にも2カ所で教会を建てた。加賀・能登の洗礼者は伝えられる史料によると 1604〜11(慶長9〜16)年までに1000人ほどになったという。 1614(慶長19)年のイエズス会年報によると、金沢は日本で最も栄えた教会の1つとなっていたのである。

利休の七哲の1人であった茶人右近と親交の深かった家柄町人に、片岡孫兵衛(休庵)がいる。 最近、「片岡家文書」のなかから、右近自らが詠んだ歌2首が発見された。 これは晩年、息子夫婦を亡くした右近の親族を思う心情を伝えるものとして貴重である。

 

この後、家康の禁教令により、1614(慶長19)年に右近は金沢を追放され、マニラで1615(慶長20)年2月に亡くなった。63歳であった。

文:木越 邦子

 

(『ふるさと石川歴史館』 2002年北國新聞社発刊掲載分より転載)