ユスト高山右近像(金沢教会敷地内)
カトリック金沢教会創立百周年を記念して建立されたものである。
明治二十一年(1888年)金沢市片町に、伝道士水田若吉が講義所を開設、金沢教会が始まった。
昭和六十三年(1988年)が創立百周年となるため、その記念事業の一つとして右近像の建立を計画し、昭和六十三年四月十日に盛大に除幕式が行われた。この右近像の製作者は竹下慶一氏(金沢市出身)で、石川門下の公園にある前田利家像の製作者でもある。
高山右近は摂津の国・高山で高山飛騨守の長子として、天文二十一年(1552年)に生まれたといわれている。12才のときイルマン・ロレンソより受洗し、霊名をユストと称した。21才のとき高槻城主となるや、高槻に天主堂を建立し、多くのキリシタンを育て、キリシタン大名として有名となる。天正十三年(1585年)に明石六万石の城主となるが、天正十五年(1587年)、秀吉の伴天連追放令を受け、領地を没収された。小豆島等を放浪した後、加賀藩主前田利家に招かれ、金沢に来たのは天正十六年(1588年)である。
その後、26年日間前田藩のために尽くしたが、家康の切支丹禁教令により、慶長十九年(1614年)に内藤徳庵らと共に、金沢より長崎へ追放、12月にはマニラに流された。
慶長二十年(1615年)2月マニラで63才の生涯を閉じた。
右近が利家に招かれ金沢に来た1588年は、金沢教会の創立百周年に当たる1988年から、さかのぼること四百年である。右近が四百年前にこの地にキリスト教の種をまいたことを思い、記念事業の一つとして右近像を建立したのである。
南坊石
カトリック金沢教会 ユスト高山右近像の横に「南坊石」と呼ばれる、質の良い戸室石の庭石が置かれている。
前田利家が天正十七年(1589年)ごろ、高山右近の住まいとして与えた邸内(現21世紀美術館敷地内)に置かれていたと言われ、その後、幾度か人手を経て、加賀藩家老本多安房上屋敷の庭園にあったのを、昭和二十三年(1948年)四月に「高山右近顕彰会」の請いによって、本多氏より教会に寄付されたものである。
高山右近屋敷跡(21世紀美術館敷地内)
教会を出て兼六園に向かって歩き、金沢市役所前を過ぎると旧金沢大学附属中学校跡(現在は21世紀美術館)がある。ここが右近の屋敷跡と言われている。
「金沢古蹟志」には「高山南坊の第跡は石浦神社の向、旧藩中は岡田氏等の邸地となり、今師範学校の囲い地となりたり。」と明記されており、利家生存のころの右近の屋敷だったところである。 現在の「金沢貯金事務センター」辺にあったとされる第二の屋敷へ右近が移ったのは、慶長七年(1602年)十一月金沢城炎上前後であろうと言われている。
紺屋坂
石浦神社と兼六園を右に見て坂をしばらく歩くと紺屋坂と刻んだ石碑があり、この側面には次のとおり記されている。
「加賀藩初期に藩の御用染商館紺屋孫十郎が坂の付近に住んでいたので、この名がついた。」
従って、この坂下一帯は紺屋町と呼ばれていた。
紺屋坂の正面に石川門と城の石垣が見える。 篠原一孝が城の石垣を築いたときは、石垣に段差をつけていたが、右近が城の修復を命ぜられたときに、防衛の観点から石垣の段差をなくし、現在の姿に手直ししたと言われている。 このため、右近と篠原一孝の間が一時気まずくなったようであるが、後に友情は回復しており、右近が長崎に追放されたときには、篠原一孝は右近に対して厚い友情を示している。
玉泉園
紺屋坂を下り、「県兼六駐車場」と左折すると、「加賀友禅伝統産業会館」横に「玉泉園濟雪亭露地」と書かれている石碑のある庭園がある。
「玉泉園」の由来はパンフレットに次のように記されている。
「宇喜多秀家が朝鮮遠征の際、金如鉄と称する少年を岡山城へ連れ帰った。その後、秀家の没落により、秀家夫人豪姫はこの少年を伴って金沢へ里帰りした。この少年は初代藩主利家夫人芳春院と二代藩主利長夫人玉泉院に育てられ、後に帰化して脇田直賢と名乗った。
この庭園は直賢が作庭にとりかかり、脇田家四代目九兵衛のとき完成した。
この玉泉園の名称は二代藩主利長夫人玉泉院に由来し、代々脇田家が所有していたが、明治の代に西田家の所有となり、現在は一般に公開されている」とある。
庭園にはキリシタン灯籠がある。キリシタンであった脇田直賢が青戸室石で作らせたもので、織部型である。
旧東内惣構堀
「玉泉園」を出て兼六園下に向かって歩くと、間もなく左に「旧東内惣構堀」と記されている石碑が見える。碑の側面には次の通り書かれている。
「金沢城防備のために二代藩主利長が慶長四年に高山右近に命じて掘らせた東側の内堀である。
旧小尻谷町から始まり橋場町を経て浅野川まで長さ約千三百メートル、幅九十センチメートルから三メートル六十センチで、城側に土居を盛り竹藪を配していたが、今その面影は殆どない。」
慶長四年(1599年)右近の指図より僅か27日間で「内惣構堀」が完成したと言われ、全長は東と西を合わせ三キロメートルである。
尚、外惣構堀は慶長十五年(1610年)に完成しているが、それは篠原一孝の指図によるもので、全長は東と西を合わせて四・四キロメートルである。
大手町
兼六園下から石川門下の「白鳥路」を通って大手町の堀に出ると、「大手町」と刻まれた石碑がある。その側面には次のとおり記されている。
「藩政時代は金沢城の大手口であったのでこの名がついた。大手先、小坂口とも呼ばれ大身の武士が住んでいた。」
慶長四年(1599年)、増田長盛らの中傷で、家康から利長謀反の疑いをかえられ、家康が加賀討伐の軍を起こそうとしたとき、利長は右近と家老横山長知らを大阪に派遣し、異図なきことの弁明と、利長の母「芳春院」を人質として江戸に下らすことで、加賀藩の危機を脱した。
これが、大名の家族を幕府に人質として差し出す最初のケースとなった。
さて、利長は加賀藩の不安はそれだけで解消するものではないとして、右近に金沢城の修築を命じた。右近は高槻城築城の経験を生かして、慶長四年十二月から翌年正月にかけ、僅か二十七日間で新丸を築造、尾坂門を大手の正門にするという大事業をなし遂げた。
「大手門」の石碑があるところは、この「大手門」の跡である。
豪姫屋敷跡(黒門前緑地)
豪姫は天正二年(1574年)加賀藩祖・前田利家とお松の方との四女として誕生したが、豊臣秀吉の養女となった。後に岡山城主 宇喜多秀家に嫁ぎ、備前の方と称される。
慶長五年(1600年)関ヶ原の合戦に敗れた秀家は八丈島に流された。豪姫は大阪でキリスト教の洗礼を受けて金沢に帰り、現在の黒門跡緑地に住んだ。洗礼名はマリアである。
彼女は60才でここで亡くなるまで、人生の半分を金沢で過ごした。
甚右衛門坂
「大手門」の石碑を後にして進み、尾崎神社を左折すると、甚右衛門坂と記された石碑が見える。この石碑の側面には次のとおり記されている。
「天正八年佐久間盛政の攻撃を受けたとこ、本願寺方の浪士平野甚右衛門が奮戦討死にした坂なのでこの名がついた。」
「金沢古蹟志」に「この頃、金沢甚右衛門坂の下にばてれん居たり」とあり、現在の大谷廟所のあるあたりに教会が建てられたと言われている。
甚右衛門坂は金沢城の内惣構橋詰に上がる横道であり、非常の際には重要な出入口となる坂道である。その坂下に教会の建立を許したのであるから、慶長六、七年頃の利長は、右近並びにキリシタンに対して特別な信頼を抱いていたと思われる。
内藤徳庵、宇喜多久閑らの高禄キリシタン武士たちも、次々とこの教会の付近一帯に屋敷を与えられたようになった。
古老によると、内藤徳庵の末裔の家が、明治の初めまで、この付近にあったそうである。
高山右近屋敷跡(旧金沢貯金事務センター跡)
尾山神社の手前に旧「金沢貯金事務センター」跡がある。
「金沢古蹟志」によると、右近の第二の屋敷跡は旧金谷館前の土地になっているが、旧「金沢貯金事務センター」が建てられていた土地がそれである。
右近が石浦神社前の第一の屋敷から、この第二の屋敷に移ったのは、慶長七年(1602年)十一月の金沢城炎上前後の頃とされている。
旧西内惣構掘跡(尾山神社前)
尾山神社前の側溝は、現在、コンクリートで覆われているが、右近が構築した「内惣構堀」の西内堀は、この辺りを起点としており、旧上松原長から近江町、彦三、主計町を通り浅野川に通じていた。
旧西内惣構掘跡(主計町緑水苑)
西内惣構堀が浅野川に流れ落ちる地点にあたり、緑地として整備されていて散策できる。