聖堂物語

教会の鐘

 喧噪の大通り(広坂通り)からカトリック金沢教会に向かうと、正面に見える聖堂のすぐ右側に、先端に十字架を戴いた5階建ての高い塔が隣接しているのがわかる。これが、これからお話しようとしている金沢教会の鐘の塔(鐘楼)である。
 塔の建設は聖堂と同じく1959年で、既に50年余の歴史を背負ってきたことになる。面積は61.26メートル、先端までの高さは29.5メートルで結構目立つ建造物である。最上階は四隅の柱と低い腰壁以外に何もない吹きさらしとなっていて、眺望は抜群だが高所恐怖症の人にはちょっとお薦めできないスポットである。(建物内部の階段も急でほこりっぽく、手すりの強度も十分とは言えない。したがって、当然のことながら出入り口は施錠されていて一般の人は立ち入り禁止である。)
 そしてこの吹きさらしの最上階には大小5個の鐘が、個別に独立した5本の回転軸に固定されている。これが教会の鐘の本体で、それぞれの鐘の中には分銅状の舌が吊り下げられており、鐘を揺らせると、この舌が鐘の本体を内側から叩いて音を発生するという仕組みである。これより、教会の鐘が発する音は金属性の音(カーンという音)が中心となっていることと、鐘の大きさや形状の差が音色の違いとなってあらわれるというわけである。
 
 本論から離れた脇道にはいって、物理学的な面から考える。
 同じように鐘と呼ばれるものでも、教会の鐘と異なって仏教寺院の梵鐘の場合の鐘の音は金属性の音ではなく、厚手素材の本体を撞木で衝いて鐘自体に歪み振動を発生して周辺の空気を振動させて音源とするものである。したがってこの方式(梵鐘による方式)では技術的にも大きく異なる種々の音色の鐘の音は実現が困難だが、逆に低くてよく響く音色を効率的に実現させるには向いていると言える。
 要は、同じように「鐘の音」という言葉で表現されていても、教会の鐘の音色は梵鐘の音色とは全く異なる発想から出発して異なる技術を背景とし、異なる発展をとげたものであることを強調しておきたい。
 
 本論に戻る。
 金沢教会の鐘の塔の最下層である一階には、天井より5本のロープが垂れている。それぞれの鐘を揺するために取り付けたプーリー(滑車)を駆動するためのロープである。
 鐘撞きの担当者がここでロープを引くと、最上階の5階にある鐘が傾き、内部の舌が鐘を叩いて音を発する。次いでロープを緩められたプーリーは反転して舌が鐘の反対側を叩き、2度目の音を発する。この繰り返しで鐘は暫くの間鳴り続けることとなる。鐘は5個あるので、音色の異なる鐘の音が調和して独特のメロディーを奏でることとなる。
 ロープを強く引くと鐘は強い音を発し、逆にそっと引くと密やかな音を発する。5種類の鐘が奏でる音色と強弱あるいは緩急などの組み合わせで、鐘の音は鐘撞き担当者の感情を表すことができる。例えばクリスマスあるいは復活祭などの大祝日のミサの開始を告げる鐘の音は何か誇らしげな響きを奏で、葬儀ミサでは沈んだ音色をもって奏でるなど、鐘の音はその時々の感情を表すことがある。
 
 
 物の本によれば、教会の鐘は古くは5世紀頃から始まったとされているらしいが、本格的なものは14世紀頃になるとのことである。長い歴史の中では色々な逸話が残されているが、先の大戦ではヨーロッパにおいても国家権力が武器の製造のためにと教会の鐘の供出を迫ったという我が国と似たような悲しいエピソードも残っているという。
 
 原則として金沢教会の鐘は、毎週日曜日にミサの開始を知らせている。このときの鐘は5個すべての鐘を鳴らしている。
 そして毎日、「正午の鐘」が鳴らされる。この場合鳴らされる鐘は特定の1個だけである。本来この正午の鐘は「アンジェラスの鐘(あるいは「お告げの鐘」)」と呼ばれ、朝・昼・夕の祈りの開始を知らせる合図だが、あまり頻繁にならすと近所迷惑になるという、都会地特有の遠慮が働いた措置からか正午に限定されるようになったらしい。ただし、担当者が不在だったり忘れていたりすると鳴らされなかったりすることがあるので、注意が必要である。
 また、例えば電子的に鐘撞きを実行する装置も市場に存在するが、やはり担当者の手で鳴らすという発想は捨て難いものがある。
 そしてもうひとつ、「葬送の鐘」がある。葬儀のミサの後、霊柩車が教会玄関を離れる際、教会の鐘は死者への別れを惜しんで、特別のメロディーで鐘の音を小さく響かせる。時には間違った音が入ることもあるが、それは担当者の手が涙で滑った結果であると理解してほしい。
 
 鐘にまつわる蘊蓄をもうひとつ。
 映画化もされた話題作で、アメリカの作家アーネスト・ヘミングウェイの「誰がために鐘は鳴る (For Whom the Bell Tolls)」という作品のタイトルに示された鐘は「葬儀を知らせる鐘」であることを示唆した文章が付加されている。このことを意識して読んでみると、作者の言おうとするメッセージあるいは思想性をより深く理解することができそうである。

(百人隊長)