復活祭といえば綺麗に彩られた卵を思い浮かべますが、そもそもなぜ卵なのでしょうか?ここでは卵が復活祭の象徴となった起源や、それに関する逸話を紹介します。
- 復活祭は「過ぎ越し祭」?
- ユダヤの過ぎ越し祭とたまご
- イースターとたまご
- 復活の象徴としてのたまご
- 復活祭のたまごと教会
- 彩色たまご、絵付けたまごの起源
- 復活のたまご伝説
- チョコレート産業と復活祭
- 復活のウサギとたまご伝説
- 各国の装飾たまご
- 高価なたまご
- 子供たちと復活のたまご
「平和・人権」ページの「05. 主の復活といのちの卵」もぜひお読みください。
復活祭は「過ぎ越し祭」?
「復活祭」は、イタリア語やスペイン語で「パスクア」、フランス語で「パーク」、ギリシア語で「パスカ」、ロシア語で「パースハ」…、等々、多くの言語で「過ぎ越し祭」に相当する語が使われています。イエス・キリストの受難と復活が、ちょうどユダヤ人の過ぎ越し祭(ヘブライ語で「ペサハ」)の時期だったことを思い出してください。
過ぎ越し祭は、神がモーゼを通じてエジプトで奴隷状態にあったユダヤ民族を解放したことを記念する祭りです。神がエジプトに送った十の災いの最後の災いは、無傷の雄の子羊の血で戸口にしるしをつけていない家の長子をすべて殺す、というものでした。ユダヤ人は子羊を屠り、その血を戸口に塗って災いを免れました。災いが「過ぎ越し」て行ったことからこう呼ばれるのです。
キリストのご復活も、同じように「過ぎ越し」と言うことができます。人間を罪から浄め、永遠の死から免れさせるために、みずからいけにえの子羊となってご自身の血を流して下さったからです。
ユダヤの過ぎ越し祭とたまご
ユダヤ教徒の過ぎ越し祭の宴席は「セデル」と言います。セデルには、ワイン、「マッツァ」と呼ばれる種なしパン、苦菜の他に、卵も出されます。これは、エジプトのユダヤ人奴隷を最後まで解放しなかったファラオの頑な心の象徴だと言われています。
イースターとたまご
一方、英語の「イースター」やドイツ語の「オースターン」に相当する語は、聖書のどこを捜しても見当たりません。昔、テュートンの光の女神(または、夜明け、春の女神)「エアストレ」(または「エオストレ」)に捧げられた4月のことを「エオストレモナト」と呼んでいたことから、この女神のお祭りがイースターという語の起源だという説が有力です。女神はよく卵を持ちウサギを従えて描かれたため、今日のイースターの卵やウサギはその名残りだとされますが、確証はないようです。
この女神に限らず、バビロニアやアッシリアの「イシュタル」、エジプトの「イシス」、シュメールの「イナンナ」…、その他にも、春に命を芽吹かせ、愛と豊穣、多産を司る女神や地母神崇拝は、あちこちに見られます。また、卵のもつ神秘性も、エジプト、ペルシア、中国、インド、ギリシア等、世界じゅうの神話で語られています。女神崇拝が、命の再生のシンボルである卵や、多産を象徴するウサギと結びついても何ら不思議はありません。
復活の象徴としてのたまご
考えられるのは、初期キリスト教布教時代に、各地の伝統的春祭りがキリストの復活のお祭りへと吸収されて行く中で、そのシンボルもまた、キリストの復活の象徴として自然に融合して行ったということではないでしょうか。
厳しい冬が終わり、命が一斉に芽吹いて大地がよみがえる、その象徴だった卵が、キリスト教以降は自然の再生ではなく、人間の再生の象徴となりました。その殻はキリストがよみがえられた墓になぞらえられ、卵はキリストがもたらして下さった新しいいのちの象徴となったのです。
復活祭のたまごと教会
16世紀、教皇ユリウス 3 世は四旬節の卵の消費を禁止しました。そのため、復活の日曜日にようやく卵が解禁になると、卵で盛大に復活を祝い、親戚や友人や使用人や親しい人に卵を贈る習慣がさらに盛んになりました。17 世紀には教皇パウロ 5 世が祈りの中で卵を祝福しています。イエスの復活の記念として教会で卵を祝福することは普通だったようです。
彩色たまご、絵付けたまごの起源
四旬節に卵の消費が禁じられると、冷蔵庫のない時代ですから、産まれた卵は復活祭の日まで液ロウに浸し、できるだけ新鮮なままで保存しました。これがのちにロウを用いて色付け装飾を施す習慣になったと言われています。卵を長持ちさせるためにゆで、生卵との区別のため殻を植物で染めたのが彩色の起源だとする説もあります。
中欧の復活祭の主役、彩色卵とウサギは、キリスト教以前からいのちと豊穣のシンボルとして存在していましたが、卵を贈る習慣は、ファラオの時代やペルシアの王の時代、また、ケルト社会にもありました。彼らは卵を植物性染料で彩色し、特別の日に贈りました。最上の贈り物は、最も美しく描かれた卵でした。それらは屋内に飾られました。
一説によると、卵を贈る伝統は中国から来ています。何世紀も前、中国人は卵をタマネギの皮でくるんでゆで、ゆであがると皮を除いて春祭りのプレゼントにしました。この習慣がエジプトへ伝わり、エジプト人も同じように卵を染めて新しい季節の贈り物としたという説です。
復活のたまご伝説
ポーランドの古い伝説は民話とキリスト教信仰とが融合したものが多く、卵は復活祭と密接に結びついています。
ひとつは聖母マリアに関係するものです。マリアはキリストの十字架のもとで兵士たちに卵を差し出し、あまり手荒にしないでくださいと泣いて懇願しました。そのときマリアの涙が卵の上に落ち、落ちたところが輝く色彩の水玉模様に変わりました。
もうひとつの伝説は、マリア・マグダレナがイエスの身体に香油を塗ろうと墓へ向かっていたときのことです。彼女は食事のために卵を入れたかごを抱えていました。墓に着いてかごの覆いを取り除くと、奇跡が起って卵の殻が七色に染まっていました。
チョコレート産業と復活祭
多くのキリスト教国では、復活祭はクリスマスに次ぐチョコレートの消費時期です。19世紀初頭に興ったチョコレート産業が、販路拡大にチョコレート製の復活祭の卵を売り出したのです。近年の日本のヴァレンタインチョコレートを彷彿させます。記録に残る最初のチョコレートエッグはドイツとフランスに現れました。それからまもなく他のヨーローッパ諸国に広まって行きました。これらのチョコレートエッグは、当初は単なるかたまりでしたが、製菓技術の向上に伴い、今日のように中が空洞の卵の製造が可能になりました。卵とともに、チョコレートのウサギも一般的になりました。
復活のウサギとたまご伝説
19 世紀よりチョコレート製のウサギがさかんに売り出されるのに呼応して、ドイツでは次のような新しい伝説が生まれました。
アリマタヤのヨゼフが用意した墓にイエスが葬られたとき、洞穴の中にはウサギが一匹隠れていたというのです。ウサギは人々が入って来て、イエスの死を泣き悲しんでいる様子にびっくりしました。墓の入り口が岩でふさがれてからも、ウサギはイエスのご遺体をずっと見ていました。そして、思いました。「みんなが大切に思っているこのお方はいったいだれなのだろう?」
見つめながら長い時間が経ちました。まる1日、まる1夜が過ぎました。すると、突然、ウサギは驚くべき光景を目にしました。死んだはずのイエスが起きあがり、覆われていた布をよけたのです。天使がひとり、入り口を塞いでいた岩を取り除きました。イエスは生きて洞穴をお出になりました。
ウサギはイエスが神の子だと分りました。町じゅうの人に、泣いていた人たちみんなに、イエスは復活なさったからもう悲しまなくていいんだと知らせなければ、と思いました。でも、ウサギは話すことができません。それで、色つきの卵を彼らに持って行ったら、いのちと喜びのメッセージを分ってもらえるかもしれない、と思いつき、そうしました。
そのとき以来、と伝説は語ります。ウサギは毎年復活祭になると、イエスが復活され、喜びのうちに生きなければならないことをみんなに思い出してもらうために、すべての家々に色つきの卵を置いて行くようになりました、とさ。
各国の装飾たまご
ギリシアでは、キリストの血を思い起こすために赤い卵を交換します。ドイツやオーストリアでは、聖木曜日に緑色の卵を食べます。アルメニアでは卵を空にして、キリストとマリアさまの絵を描きます。ポーランドやウクライナの「ピサンキ」は工芸の匠の技にまで達したものです。新鮮な卵に溶かしたロウを塗り、その後染料に浸すのですが、色を残したい部分にロウを塗っては染料に浸すことを繰り返してゆく手法です。これらはほんの一例です。様々な文化にそれぞれ独特の卵があります。
高価なたまご
宝石作家ピーター・カール・ファベルジェの作った一連の宝石卵は世界的に有名です。ロシア皇帝アレキサンドル3世は、ファベルジェをお抱えにして毎年復活祭の宝石卵を作らせました。のちに、アレキサンドルの息子ニコライ2世もその習慣を引き継ぎました。合計57個の卵が作られたと言います。その作品のひとつがクリスティーのオークションにかけられたとき、基準価額は4?6百万ドルだったとか。復活のあたらしい命の象徴も随分遠くへ行ってしまったものです。
子供たちと復活のたまご
昔、復活の日曜日に子供たちは大喜びで野原に出て行き、アレルヤを歌いながら卵を集めました。多くの国では今日でもこの習慣が残っています。大人がいろんな色の卵を?チョコレートエッグやお菓子の入ったプラスチックの卵を含め?庭や家の中に隠し、子供たちがそれを探し出します。子供たちは、卵はウサギが隠したと信じています。ホワイトハウスでは復活祭に子供たちの卵転がし競争が催されます。いずれも復活祭に相応しい、よろこびにあふれる行事です。