金沢のカトリック420年のあゆみ トップページへ

高山右近の時代

教会前の右近像

 信仰のため秀吉に領地を取り上げられたユスト高山右近は、1588年、「耶蘇寺の一カ寺建立くださらば参るべし」との条件で、利家の招きを受け客将となりました。右近が最初に居を構えたのは、現在21世紀美術館のある辺りでした。

 右近は、前田家のもとで築城をはじめ藩政実務にも携わる一方、教会を建て、1605年にはパードレとイルマンの常駐を実現させました。能登にも2つ教会を建てました。また、内藤如安ら有力キリシタンを金沢へ招き、如安の妹ジュリアの導きで洗礼を受けた豪姫(前田利長の妹で宇喜田秀家に嫁いだ)を引き取り、豪姫とその縁で来沢した宇喜田休閑のためにも教会を建てています。

 幕藩体制が固まりつつある1613年の暮れ、徳川家康はついに「キリシタン追放令」を出します。翌1614年、高山右近は内藤如安と両一族とともに、26年住んだ金沢を後にし、徒歩で京都へ、そして大坂から船で長崎へ送られ、追放先のマニラへと向いました。

 マニラでは祝砲とともに総督はじめ大勢の人々に出迎えられ、手厚くもてなされましたが、旅の疲れと熱病のため、高山右近は1615年2月2日の夜、息を引き取りました。63歳でした。内藤如安はマニラに日本人キリシタン町サン・ミゲルを建て、1626年に77歳で亡くなりました。

 

浦上四番崩れ

卯辰山記念碑01

卯辰山記念碑02

 その後、日本では迫害の嵐が吹き荒れ、公にキリシタンを名乗る者は絶えました。しかし、絶滅したかに見えた信仰の種は地中に潜み、辛抱強く時を待っていました。

 1858年の開国とともに各国の宣教師が上陸しました。1865年、パリ外国宣教会が長崎に在留外国人のための大浦天主堂を建設したとき、潜伏していた浦上のキリシタンが天主堂のプチジャン神父のもとを訪れました。劇的な「信徒再発見」の瞬間となった信徒のひとこと「サンタ・マリアの御像はどこ?」はあまりにも有名です。司祭を得た信徒たちはミサに与れるようになり、寺請け制度に逆らって、死者の埋葬をキリシタンで行なうことも度重なりました。

 このことはやがて奉行所の知るところとなり、浦上のキリシタンは捕えられ、投獄され、流刑人として各藩に流されました。所謂「浦上四番崩れ」です。流刑人となった3千3百余名のうち、主に浦上の中野郷出身の5百余名が、加賀藩預けとなりました。1870年の冬のことです。

 金沢卯辰山の収容施設で、乏しい食事と寒さの中、彼らは仏僧の説諭を受けました。特に信仰の強い者には、みせしめとして「奥のときえ」という二重の柵をめぐらした吹きさらしの独房へ入れられました。厳しいキリシタン迫害は、1873年2月24日にキリシタン禁制が解かれるまで続きました。

 

カトリック金沢教会の誕生

旧聖堂

聖堂落成

 1888年4月、金沢市片町(現在、香林坊109がある辺り)に日本天主公教会金沢講義所が開設され、同年8月12日、名古屋の主税町教会からテュルパン神父が来沢して初めての洗礼式が行なわれました。翌1889年には初代主任司祭としてパリ外国宣教会のクレマン神父が就任、1894年には助任司祭としてシェレル神父が赴任しました。

 風紀上の問題から、教会は1896年8月に広坂の現在地に移転しました。広大な森のような移転先の敷地に、聖堂、信徒控え所、伝道士館が建てられ、1903年には第四高等学校(現金沢大学)の学生のための寮も設立されました。

 

パリ外国宣教会から神言会、そして跣足カルメル会へ

 金沢教会の司牧は、パリ外国宣教会の後、1909年末から43年間神言会が担当しました。その間、教区長ライネルス神父が1914年長町に病院を設立、その経営を聖霊奉侍修道女会に依頼しました。金沢聖霊病院の誕生です。また、教会敷地内にあった学生寮は、1919から9年間、神学校として使われ、短い期間でしたが卒業生の中から司祭を出しています。

 香林坊が近づいた電車の中、カタコトの素っ頓狂な叫び声「シャショサン、ココデコロシテ(降ろして)クダサーイ」に車内大爆笑するなど、一向宗王国の金沢にもヤソ宣教師たちの存在が徐々に溶け込んで行く様子が、記録に窺えます。

 1931年には聖霊病院に聖堂が完成しました。軍部支配政権による宗教統制が進む中で、金沢教会50周年と聖霊病院開設25周年が1939年に祝われました。しかし、この後、教会の活動は極端に制限され圧迫されて行きます。第二次世界大戦が始まると、連日特高警察が教会に張り込んで信徒らを監視しました。

 大戦が終わり、いち早く中国で布教を始めた跣足カルメル会の司祭たちは共産革命勢力による激しい迫害に遭い、次々に追放されました。このうち6名が、名古屋教区を新たな宣教司牧地に認可され、横浜に上陸しました。その日は1951年12月3日、ちょうど聖フランシスコ・ザビエルの祝日でした。

 6名のひとりヨアキム・グイッツォ神父はその年のうちに名古屋から金沢に赴任し、約1年半の神言会との合同司牧が始まりました。1952年には聖ヨゼフ保育園が誕生しました。金沢教会の管理が正式に神言会から跣足カルメル会へ移管されたのは1953年のことです。

 尚、金沢聖霊病院での司牧は引き続き神言会が担当し、1966年に跣足カルメル会へ委ねられました。

 

成長する教会

 1953年に七尾教会、1956年に小松教会が建設されました。1959年8月23日にはカトリック金沢教会の新聖堂が献堂されました。聖ヨゼフ保育園は1961年に聖ヨゼフ幼稚園となりました。

 奥能登の宣教拠点として1965年に輪島教会が建てられました。1968年には金沢郊外の大野町に、1969年には羽咋市に、それぞれ巡回教会が誕生、翌1971年には、跣足カルメル修道院の聖堂として金沢に三馬教会が誕生しました。当初、三馬教会は金沢教会の分教会でしたが、1979年に独立して小教区となりました。1977年には松任巡回教会が建てられ、1988年には内灘巡回教会が誕生しました。尚、大野巡回教会は、内灘巡回教会建設準備のため1986年に閉鎖されました。

 

「わたしは必ずあなたとともにいる」。金沢のカトリック教会は、豊かな信仰の遺産を受け継いで主とともに歩み続けています。