神の御前では皆等しく愛されている

14. イエスさま、ジムでございます

 ある昼どき、教会内を司祭が見回っていました。祭壇まで来ると、司祭はどんな人が祈りに来るか、近くで見ていようと思いつきました。すると扉が開き、男がひとり通路をやって来ました。司祭は男を見て眉をひそめました。無精ひげを生やし、よれよれのシャツを着て、ふちがほころび始めたような着古したコートを手にしていたからです。男はひざまずき、頭を下げ、それから立ち上がって行ってしまいました。

 続く毎日、いつも昼どきになると同じ男がかばんをひとつ持って現れました。わずかの間だけひざまずき、それからまた出て行くのです。司祭は少し心配になり、泥棒ではないかと疑い始めました。そこである日、教会の扉のところで男を待ち受け、出て行こうとした男を呼び止めました。「ここで何をしているのですか?」

 男は言いました。教会へ来る街道筋の工場で働いており、昼休みの30分を利用して祈りに来ていることを。「わずかしかいられないんです。工場はちょっと遠いので。だから、わたしはひざまずいてこう言うだけなんです。

 『主よ、わたしは、あなたが罪を赦してくださってからどんなに幸せか、ただそれを申し上げるためにまた参りました…。わたしは祈りかたがよくわかりません。でも毎日あなたを想っております…。以上、イエスさま、ジムでございます』」

 司祭は自分が何というばかだったのかと思いました。そして、ジムに言いました。「それはいいことです。教会はいつでも喜んであなたを迎えますよ」。

 司祭は祭壇の前にひざまずきました。大きな愛のあたたかさで心が溶け、イエスに出合えた気がしました。涙がほおを伝い落ち、彼は心の中でジムの祈りを繰り返しました。「主よ、隣人を通してあなたに出合い、そしてわたくしの罪を赦してくださってから、わたくしがどんなに幸せか、ただそれを申し上げるために参りました…。わたくしは祈りかたがよくわかりません。でも毎日あなたを想っております…。以上、イエスさま、わたくしでございます」。

 ある日、司祭は年老いたジムが姿を見せないのに気づきました。ジムが祈りに来ないまま何日も過ぎたので、司祭は心配して、とうとう、工場へ行って彼のことをたずねました。ジムは病気でした。医者が言うには、病状は予断を許さないがまだ助かる見込みはあるそうだと工場の人たちが教えてくれました。

 ジムが入院してから一週間の間に、病院では大きな変化が生まれていました。彼はいつもほほえみ、彼の喜びがみんなに伝染したのです。看護婦長は、花もカードも見舞客も来ないのに、どうしてジムがそんなに幸せなのかわかりませんでした。

 司祭は看護婦といっしょにジムのベッドへ近づいて行きました。看護婦が次のように言うのがジムにも聞こえました。「友達はだれひとり見舞いに来ません。彼はどこにも頼るあてがないのです」。

 年老いたジムはおどろき、にっこりほほえんでこう言いました。「それはちがいます。看護婦さんはご存知ないのです。わたしが入院してから毎日、昼どきになると、わたしの親しい友がやって来て、このベッドに腰掛け、わたしの両手を取り、わたしの上にかがみ込んでこう言ってくれるのを。

 『ジム、わたしはおまえの友情に出合い、おまえの罪を赦してからどんなに幸せか、ただそれを言うために来たのだよ。わたしはいつもおまえの祈りを聞くのが楽しみだった。毎日おまえを想っているよ…。以上、ジム、イエスだよ』」

 「イエスさま、わたくしです」とお伝えする機会を、毎日逃さないようにしましょう。

【聖書から】

 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。(ヨハネ15:4-5)

 わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。(ヨハネ15:15)