友だちの中の友だち
友だちというのはいいものである。小学校時代、友だちと一緒にスポーツをしたり、山や海で遊んだりと、楽しい思い出を持っている人も多いことだろう。中学校に入ると、思春期の悩みが襲ってくる。もう子供でもないが、大人でもない。性の問題にも目覚め、情緒的にもっとも不安定な時期を迎える。高校に入ると、"to be or not to be" といった人生の問題に加え、大学受験や将来の進路のことで煩悶することになる。
そんな時、両親や兄弟姉妹、学校の先生には話せないことでも、同じ年齢の友だち同士では、お互いにくったくなく話ができたのではないだろうか。友だちが話題にする本や映画など、自分でも読んだり、見に行ったり、また自分の日頃の不満や怒り、悲しみや喜びを吐露し、意図せずにお互いに支えあっていたのではないだろうか。
教会では、昨今、シノダリティが取り上げられている。が、人間としての成長過程で、まさに「ともに歩んでくれた」のが友だちだったのではないだろうか。
とはいえ、友も私も共にさまざまな限界を持つ罪深い人間にすぎない。それぞれ違う環境の中でさまざまな制約を受け、異なった人生を歩んでいる。そもそも、お互いいつまでも生きているわけではない。
ところが、いつどこでも私たちとともに永遠に歩んでくれる友がいる。悩む私たちを教え諭し、歩むべき道を指示してくれる、神の独り子、救い主イエス・キリストである。これ以上の友を見出すことはできない。「私たちが誠実でなくとも、キリストは常に誠実で」(2 テモ 2:13)、私たちを裏切ることはないと、アビラの聖テレジアは言う。というのも、主は、私たちの魂の最深部に、『霊魂の城』の最深奥に現存しておられるからだ。自分の心の中に入り、沈黙のうちに静かに主とともにいること、あるいは心から愛と信頼をもって主と対話すること、これこそ祈りだと聖テレジアは言うのである。
心の祈りとは、私たちを愛してくださっている―そのことを私たちは知っているのですが―その方と、ただ一人きりになり、たびたび交わす友情の交わりに他なりません。(『自叙伝』 8・5)
パウロ 九里 彰 神父