幼子の平和
天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(ルカによる福音書 2・10-12)
赤ちゃんを見て、どう扱ってよいのか戸惑う人はいても、こわがって逃げ出す人は、まずいないだろう。それどころか、そのかわいらしさに惹かれ、大人も子供も、みんな集まって来るのではないだろうか。
母親の腕に抱かれ、無心に眠る幼子は、まだ何も知らず、何もできない。だがその無垢の姿を見て、上だ下だと、この世の欲望にまみれ、四苦八苦している大人たちは大いに慰められるのである。
ところで、二千年前、ベツレヘエムの家畜小屋に一人の幼子が生まれた。天使が現れ、羊飼いたちに、「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」が、救い主のしるしだと言う。実に奇妙なしるしである。家畜の餌となる飼い葉桶に寝かされている乳飲み子がメシアだというのだから。
冷静に考えてみれば、「馬鹿馬鹿しい」と、一笑に付されてもおかしくない。王の宮殿とか大祭司の館で生まれたというならともかく、現代で言えば、ガレージか物置小屋のような所で、難民化ホームレスのように生まれた赤ん坊が、人類の救い主だと言うようなものだから。
しかし、ここに大きなメッセージが潜んでいるように思われる。人間的に見れば、最低最悪の状態の中で生まれたこの幼子は、ヨセフさまとマリアさまに見守られ、すやすやと安心して眠っているのである。それはこの世の外的な状態には左右されないまったき平和、絶対的な平和とも言える。この平和をイエスは生き、成長し、やがてこの平和の中で十字架の死を過ぎ越していくのである。
いと高きところには栄光、神あれ、地には平和、御心に適う人にあれ。
パウロ 九里 彰 神父