敵味方
ウクライナとロシアでの戦争が今なお続いている。多くの人がこの戦争がメガロマニア(誇大妄想狂)にかかった「プーチンの、プーチンによる、プーチンのための戦争」であることに気付いている。彼の無謀な決断により、今もこの瞬間に、ウクライナ・ロシア両国の多くの兵士のかけがえのない命が次々と失われている。
彼らにも親や兄弟姉妹、妻や子供がいることだろう。だが戦争となれば、敵味方に分かれ、何の躊躇もなく、虫けらを踏み潰すように、敵を殺していく。そうしなければ自分が殺されてしまうのだから。
敵か味方かの判断基準は、国籍である。ウクライナ人にとってロシア人は敵であり、ロシア人にとってウクライナ人は敵となる。ただそれだけで殺し、殺される。どんなに立派な人であろうと、妻や子供がいようと、まったく関係がない。問答無用である。判断基準が人種となれば第二次世界大戦のユダヤ人虐殺、宗教となればキリシタン迫害と、さまざまな事柄が人を差別し、殺人の正当な理由となる。
だが、敵か味方か、正しい者か正しくない者か、善人か悪人かの判断は、判断する人間の側の自己を中心とした判断に過ぎない。人によって、男と女によって、また時代や場所によって、その判断は一定しない。エデンの園で神の命に逆らい、「善悪を知る木」を取って食べた原罪が想い起される。我(エゴ)が生じ、三毒(貪瞋痴)、百八つの煩悩が生まれてくるようなものであろうか。
第二次大戦末期、フランスの小さな村での出来事。負傷した若いドイツ兵が農家の納屋に逃げ込む。彼を見つけたおかみさんは憐れに思い、ひそかにかくまい、介抱する。だがレジスタンスに見つかり、二人は村中からリンチに遭い、殺され、遺体は空井戸に投げ込まれたという。
あなたがたも聞いているとおり、「あなたの隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。しかし、わたしはあなたがたに言っておく。あなたがたの敵を愛し、あなたがたを迫害する者のために祈りなさい。それは、天におられる父の子となるためである。(マタイ 5, 43-45)
パウロ 九里 彰 神父