「寄り添って」
先日、司祭の集まりの時、NPO 法人の遊びと学び、生活の場である「こどもの里」の講話があった。それは釜ヶ崎のことでもある。ここで住む人達は日雇い労働者たちの家族でもある。そこに路上生活をしている人もいる。私が訪れた 45 年前は古紙も鉄類も回収できた。今はその仕事もなく、それが原因でもあろう。母が家を出る。虐待、家出、父親の暴力、食べるものがない、餓死する人もいる。生存への発達が留められている世界でしょう。45 年前に見た寄り添った生活はどこへいったのか。あるとすればヤングケアラー。
石川県にも夜間学校ができるという。良いことです。しかし、子供の里が大きくなっていくのは釜ヶ崎の貧しさが大きくなるのでしょう。ばらまきの政策ではなく、底上げの政策をと政治家にお願いします。AI が論文を作る時代にと言いたいが。
最近子供のことが数多く取り上げられるなかで、高校生の倫理感のある作文を読んだ。「私は将来、お母さんみたいな人になりたい。私がつらいときや悲しいとき、いつも寄り添ってくれたおかげで、その都度救われて今の自分がここにあるからだ。〜〜何かと反抗した。それでもお母さんは私の話を聞いてくれ〜〜サポートしてくれた。いつの日か誰かに寄り添い、その人の支えになってあげたい。」お金や仕事が目的ではなく、寄り添って生きる温もりを感じる。
イスラエルの部族、特に小さな部族は寄り添って生きる共同体である。神の断食の教えは「断食をし、心から神に立ち返れ」それは神に寄り添って生きること。同時に「神が選ぶ断食とは、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、同胞に助けを惜しまないこと。飢えた人に心を配ること。」「互いに励ましの声をかけ、寄り添う」私達は信仰者である。この断食の心を生かすキリストの大家族になり、神を紹介するでしょう。
窄口神父