エマオへ向かう弟子たち
主のご復活、おめでとうございます。
ところで、ご存じのように、使徒パウロは、コリンの信徒への第一の手紙の中でこう言っています。
「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなた方の中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです」(15・12-15)。
私たちが、「神を信じます」と言う時、その中身はどのようなものなのでしょうか。私たちは本当にキリストの復活を信じているのでしょうか。もし信じているのであれば、「イエスは生きておられる」(ルカ24・23)という喜ばしい知らせは、この世のあらゆる挫折、苦悩、悲しみから私たちを解き放ち、すべての対立、区別・差別を超えた無限の神の愛の世界へと、私たちを招き入れてくれているのではないでしょうか。
復活したイエスは、今、すべての希望を失い、「暗い顔をして」故郷エマオへと向かう(信仰から離れていくことを象徴)二人の弟子たちに「近づいて来て、一緒に歩き始められ」ます。彼らの悲しみ苦しみに耳を傾け、みずから「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明」されるのです。そうです。エマオへ向かう弟子たちとは、他でもない、私たちなのです。キリストの現存をすぐに忘れてしまう私たちのことです。復活したイエスは、実に毎日曜行われるミサを通して、今もなお私たち一人ひとりに寄り添ってくださっています。そう、主は生きておられるのです。私たちの復活の信仰を新たにしてゆきましょう。
パウロ 九里 彰 神父