神父様からのメッセージ

隣人となること

 「善きサマリア人」のお話(ルカ10:25-37)の中に隣人となることの意味がはっきりと示されています。

 ある律法の専門家の「わたしの隣人とはだれですか」という質問に答えて、イエス様は「善きサマリア人」の話をされました。

 『ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追はぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下ってきたが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じようにレヴィ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のロバに乗せ、宿屋に連れて行った介抱した』と。このお話の中のいくつかのポイントに注目したいと思います。

 第一に、律法の専門家の質問が「わたしの隣人とはだれですか」(10:29)だったのに、イエスがその専門家に投げかける質問は「この3人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人となったと思うか」となっているということです。イエスにとっては、だれがわたしの隣人なのかと議論することは意味のないことで、わたしがだれの隣人にならなければならないのか、これを知ることこそ重要であるということです。

 もう一つのポイントは、追いはぎに襲われた人の身元も、彼を襲った追いはぎの身元もわざと不明にしてあることです。その理由は、同じようなことが誰のそばにでも起こりうることで、もしそういうことがわたしの周りに起こった場合、「隣人を自分のように愛しなさい」という掟を守るには、サマリア人のようにしなければならないということです。

 第三番目に注目したいところは祭司とレヴィ人のことです。彼等が道端に倒れて苦しんでいる人の「隣人となる」ことができなかった理由が一つも述べられていません。それはどんな理由があっても、「隣人となる」掟から免除されることがないということを意味するのだと思います。

 したがって、私の周りに苦しんでいる人がいればその人に寄り添い、愛の手を差し伸べることは、その人の隣人となるということです。そうすることによって律法の「隣人を自分のように愛しなさい」という重要な掟を守ったことになります。