復活の喜びを申し上げます
キリスト教の信仰の出発点はイエス・キリストの復活にあります。イエス・キリストが復活しなかったなら、キリスト教の信仰もないはずです。使徒パウロはこの事実を次の言葉で明言しておられます。「もしキリストは復活しなかったのなら、あなた方の信仰はむなしく、あなた方は今もなお罪の中にあることになります。しかし、実際、キリストは死者の中から復活して、死の眠りについた人たちの初穂となられました」と。(1コリント,15,17-20)
イエス様の十字架上の死は弟子達に大きな衝撃を与えました。その時、彼らはイエス様に失望してしまったのです。その時の心情は、彼らの中の二人の弟子の言葉に示されます。「ナザレのイエスは、神と民全体の前で、行いにも、言葉にも力ある預言者でした。それなのに、私達の祭司長たちや議員たちは、死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまったのです。私達は、あの方こそイスラエルを開放して下さると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日は三日目になります」と。(ルカ24,19-21)この二人の弟子の言葉は弟子たち皆の失望を表しています。
ところが、十字架に掛けられてからの三日目から40日間に渡って、何回も、またそれぞれ違った様々の状況や時間、個別に、また一同に、皆が集まっている所にイエス様が現れたりなさいます。最初の出現のとき、弟子達はイエス様を認めることができませんでした。亡霊を見ているのだと思ったり、別の人と思ったりしていたので、イエスが証拠立てることが必要となりました。そこで、十字架の傷跡を見せたり、彼らの前で物を食べたりなさいました、等々。弟子たちは他ならぬ死んだはずのイエスに出合っていると確信するようになりました。その後、彼らは一人も残らずイエスの復活の証し人となり、殉教をもって復活信仰の最高の証しを立てました。「神はこのイエスを復活させられたのです。私たちは皆そのことの証人です」と、使途ペトロは多くの人たちを前にして宣言しています。
「死よ、お前の勝利はどこにあるのか・・・私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を賜る神に、感謝しよう」と。(1コリント15,55)
イエス様は、その復活をもって死に対する輝かしい勝利を勝ち取られました。それは、ご自分のためだけではなく、私たちのためにも、この勝利を勝ち取って下さいました。キリスト者は、皆、これを確信しております。深い喜びと感謝をもって、毎年私たちが「復活祭」を迎えるのは、そのためです。