神父様からのメッセージ

憐れみ豊かな神

 ヴァチカンのシステナ礼拝堂にある「最後の審判」の大壁画を見るたびに一種のとまどいを覚えます。なぜミケランジェロは、ああいう恐ろしいキリストの姿を書いたでしょうか。その様なキリストは福音書に出合うキリストではありません。また、身をもってキリストが表してくださった神のお姿からほど遠い物だと思います。

 十字架に付けられたキリストの内に示される限りない憐れみの神、

 「私たちすべてのために御子をさえ惜しまず死に渡された神」(ローマ8:22)

 「その独り子をお与えになったほどに世を愛された神」(ヨハネ3:16)

 「憐れみゆたかな神」(エフェソ2:4)

 「慈愛に満ちた父」(Uコリント1:3)

 こういう神にミケランジェロは出会っていなかったでしょうか。それとも、当時の神学はそういう恐ろしい神の姿を提示していたのでしょうか。放蕩息子のたとえに示される天の父の限りない慈愛が、息子の帰りを心から喜び祝うお父さんの姿のなかに十分に示されるのではないでしょうか。

 幼いイエスの聖テレジアが福音にかえることによってどういう神に出合ったかを、聖女自身から聞くことにしましょう。

 「私はその慈しみを通して神様のほかのすべての完全さを眺め、礼拝します。するとすべては、愛に輝いて見え、正義さえも(多分ほかの完全さより一層)愛に包まれている様に思えます・・・神は正義そのもの、つまり私たちの弱さを斟酌なさり、人間本性のもろさを完全に知り尽くしておられると考えるのはなんと甘美な喜びでしょう・・・だから何を恐れましょう・・・放蕩息子の過ちを、あれほどの慈しみをもって、みなお許しになった限りなく正義でいらっしゃる神様」(自叙伝No.237)。「私は感じます。たとえ、人が犯すことのできるありとあらゆる罪を心に感じたとしても、私は痛悔の心を砕いて、イエス様の腕の中に身を投げることでしょう。主が立ち返る放蕩息子をどれほど可愛がっているか、よく知っていますから」(自叙伝No.339)。

 人間の様に行動する神、罰する神、ご自分の意に適わない人を捨てる神は、人間が自分に似せて造った偶像にすぎないのではないでしょうか。