神父様からのメッセージ

祈りとは何か

 「私にとって、祈りとは心のほとばしりです。天に向ける素朴なまなざしです。辛いときにも嬉しいときにも天に向けてあげる、感謝と愛の叫びです」と。(幼きイエスの聖テレジア)

 「祈りとは、私たちが気づこうと気づくまいと、神の渇きと私たちの渇きとの出会いです」(聖アウグスティノ)。

 「祈りとは、自分が神から愛されていることを知りつつその神と、ただ二人だけで度々語り合う、友情の親密な交換にほかなりません」(イエスの聖テレジア)。

 「祈りとは、ふさわしい善を神に願うことです」(ダマスコの聖ヨハネ)。

 上記の祈りの定義は、それぞれ祈りの本質を表すものだと言えましょう。やはり、祈りは願いごとにつきるものではなく、根本的には、神との心の触れ合いであって、心から神様の前で自分自身を注ぎだす行為なのです。これも、願う前から、神様が私を限りなく愛して下さり、私に必要なものを知り、また私の心にある願いを見ておられることを意識しながら、自分の思いを、喜びを、悩みを、願いを、自分の過ちも、決意も注ぎだすことになります。また、神から注がれている愛を、恵みを思って立つときは、感謝の心を注ぎだし、神様がキリストを通して行って下さったことを思いつつ、賛美、感謝、信頼の心を注ぎだすのです。やはり、心にあるものをそのまま注ぎだすのです。心配や悩みに満ちているとき、助けを、支えを願い、「取り去って下さい」との嘆願こそ信頼の現われと言えましょう。それは、神が、どんなときにも、どのような己の姿でも、しっかりと受け止めて下さることを信じているからです。

 私たちキリスト者の生活において、祈りは人が生命を保つための呼吸にも例えられます。

 祈りについて一番強調したい事実は、神様の限りない慈しみに対する信頼の重要性です。幼いイエスの聖テレジアの言葉を聴きましょう。「私は感じます。たとえ、人が犯すことの出来るありとあらゆる罪を良心に感じたとしても、私は痛快に心を砕いて、イエス様の御腕の中に身を投げることでしょう。神様が、立ち戻ってくる放蕩息子を、どれほどお可愛がりになるか、よく知っておりますから」と(自叙伝より)。