神父様からのメッセージ

高山右近の列福にちなんで

 今年の2月7日に、待ちに待ったユスト高山右近の列福式が執り行われました。その二日後、2月9日(木曜日)、教皇様を代理して列福式に来られたアマート枢機卿様を中心に、二十数人の司教と司祭の共同司式によって、この金沢教会で、「列福感謝ミサ」が荘厳に奉げられました。このミサに与った私たち皆に深い感動を与えた祭儀でした。

 さて、高山右近は「殉教者」と認定されて列福されました。これは私たちにとって、大きな励みとなります。なぜなら、殉教とは信仰のために一気に死にさらされる事だと一般に受け止められているようですが、やはり殉教はそれだけではありません。洗礼の時に、イエス様に誓った忠誠を、どの状況に置かれても、生涯を通して守り抜くことも殉教です。自分の意に反して起こる出来事、出会う困難など、日々の十字架として受け止めて、奉げることも長い殉教となります。私たちもこの殉教に召されています。

 高山右近は、洗礼のときイエスに誓った忠誠を、生涯を通して守り抜いた方、長い殉教の道を歩まれた方です。彼は、世の権力に屈することなく、キリストに忠実に従う道を選ばれた結果、地位も失い、多くの困難を進んで受け入れ長い殉教の道を歩まれた方です。

 なお、高山右近が殉教者と認定され、列福されたことから私たちに送られてくるメッセージを、心に大切に収めておきたいと思います。信仰の自由を保障されているこの時代の私たちにとって、福音に忠実に従う道を妨げるものがあるならば、それはひとりひとりの心にあります。信仰の弱さ…怠慢・・・貪欲・・・妬み・・・恨み・・・など。これ等の邪念は一人ひとりの心にあります。これ等の邪念こそ福音に従う道をさえぎるものとなりかねません。これ等の邪念に立ち向かって克服する努力は、私たちの長い殉教となっているのではないでしょうか。

 「私の後に従いたい者は、己を捨て、自分の十字架をになって、私に従いなさい」と。(マルコ8.34)

 「弟子は師にまさるものではない・・・弟子がその師のように苦しめられるなら、それで満足すべきである」と。(マタイ10,24)