キリストの祈り
祈りとは「限りなく慈しみ深い天の御父との、命に満ちた交わり」のことです。
この生き生きとした交わりは常に可能です。なぜなら、洗礼によってキリスト者は神の子の身分を与えられているからです。祈りは心からほとばしり出るものでなければなりません。祈るのは心です。心が離れているなら、祈りの表現は虚しいものです。
祈りの基本は、心の謙虚さです。自分が弱いことの自覚、どう祈るべきかも知らないことをわきまえている人は、祈りの賜物が、無償でいただけるのです。
どんな時でも、また、どの状況におかれても祈ることができます。病気の時はもちろんのこと、一人で歩いていても、車の運転や、仕事の時も祈ることが出来ます。自分の言葉で、どの時でも、どの状況に置かれても祈ることが出来るのです。
キリスト者の家庭は祈りを身につける最初の場です。特に、子供にとって、家庭は祈りを学ぶ場となっています。
教会は、私たちに絶え間ない祈りのリズムを身につけるようにと勧めています。その為に、朝と夕の祈りや、食前と食後の祈りを奨励しています。祈りと生活は切り離すものではありません。
イエス様はあるところで祈っておられた時、弟子の一人がイエスに「私たちにも祈りを教えて下さい」と願いました。この願いに答えてイエス様は素晴らしい祈りを私たちに授けて下さいました。その祈りは「主の祈り」と呼ばれるようになりました。「主の祈り」は全福音書の要約そのものとなっており、最も完全な祈りとされています。私たちキリスト者はこの祈りを毎日数回も唱えております。キリスト者でなくても、誰でも、当然この素晴らしい祈りを唱えることが出来ます。
あなたもどうぞ。
『天におられる私たちの父よ、み名が聖(せい)とされますように。み国が来ますように。み心が天に行われるとおり地にも行われますように。私たちの日ごとの糧を今日もお与え下さい。私たちの罪をおゆるし下さい。私たちも人をゆるします。私たちを誘惑におちいらせず、悪からお救い下さい。アーメン』