「私たちの国籍は天にある」(使徒パウロの言葉)
11月に入りました。カトリック教会は11月を「死者の月」と定めています。私たちは、ミサに与るたびに、一年中全ての死者のために祈っていますが、11月は毎日死者のために祈るようにと、教会は呼びかけています。なお、11月2日は「死者の日」となっています。この日朝7時と10時に死者ミサが奉げられます。また、11月3日にカトリックの共同墓地で野外ミサが奉げられ、その後に全ての墓の祝別があります。
さて、私は「死者の月」を契機として、「死」について考えたいと思います。寿命がわずかながら年々延びることを聞くとき、なんとなく死が遠のいているかのような錯覚に陥ることはないでしょうか。人生には、朝があり、昼が、夕方がある、そして夜が来ます。でも、一日には、その順番が守られるにしても、人生には必ずしもその通りになるとは限りません。どの時期に夜が来るかは、誰も知らされていません。若くして、この世を去る人も決して少なくありません。したがって、誰にとっても、死を考えるのに早すぎることはないはずです。「知恵者は死を見つめている・・・死を見つめる人は知恵者となる。人生は、死を見つめ、死への準備期間となったとき、初めて意義あるものとなる」と。(ソクラテスの言葉です)。死を意識して、自分の生きる時間が限られていることを自覚するとき、私たちは、残された人生の貴重さを認識するようになります。
イエス様の警告のお言葉を聴きましょう。
「どんな召使も二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなた方は神と富とに仕えることはできない」と(ルカ16,13)。人間は目先のものに心を奪われてしまえば、神様に対する務めをないがしろにしてしまいます。これこそ最も不幸な結果を招くものです。そこでイエス様は、決して忘れてはならない貴重な勧告を私たちに与えて下さいます。「擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなた方の富のあるところに、あなた方の心もあるのだ」と(ルカ:12,33-34)。私たちも、使徒パウロがその人生の夕べに、書き残した言葉が言えるようになれば、なんと幸せなことでしょう。