私は体の復活を信じます
「神は、死を創られたわけではなく、命あるものの滅びを喜ばれるわけではない」と。(知恵の書1.13-14)
「神は人間を不滅なものとして創造し、ご自分の本性の似姿として創られた。悪魔のねたみによって、死がこの世に入った」と。(知恵の書2.23-24)
「創世記」にはそのことが詳しく記されています。
「主なる神は人に命じて言われた・・・全ての木から取って食べなさい。ただし『善悪の知識の木』からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(創世記2.16-17)。ところが、悪魔は「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開かれ、神のように善悪をしるものとなることを神はご存知なのだ」という悪魔の言葉を信じて、人はその実を取って食べてしまった」と(創世記3.4-6)。その結果は「命の木」(神の命の意味)に近寄ることができなくなりました。(創世記3.23-24)
「死は罪が支払う報酬なのです」と。(ロマ書6.23)。
幸いなことに、神様は人を死の支配するままにおかれませんでした。それは人間が死ななくてもすむということではありません。「土の塵」で創られた体は神の「命の息」を受けて「生きる者となった」と(創世記2.7)。死は霊魂(命の息)と体の分離です。霊魂は神の許へ、体は土に返ります。死はこの世の命の終わりという現実は、私たちの人生に、ある緊迫感を与えます。つまり、死を思うとき、私たちは、自分の人生を全うするために、限られたひと時しか持たないことに気づきます。私たちは、別の人生を生きるためにこの世に戻ることはありません。
死後、人間の命が霊的な状態に生き続けられるということは、広く一般に認められてはいますが、土に返った肉体も永遠の命に蘇るなどということはキリスト者だけ信じているようです。なぜ信じるかというと、それは神の子、イエス様のお約束だからです。死によって、一粒の種のように、土に蒔かれた体は、神様の全能の力によって不滅の命に呼び起こされて、再び霊魂に結合されることを私たちは固く信じています。
「私は復活であり、命である」と明言されたイエス様のお約束です。