あなたはいかなる像も造ってはならない(出エジプト記20:4)
神を信じている人は皆それぞれ自分なりの神のイメージを持っていると思います。この神のイメージが漠然としたものに過ぎないかもしれませんが、教えられたことや体験したこと、また育った環境や文化によってそれぞれ異なったものが一人一人の中に出来上がってきました。
気をつけなければならない事は、このイメージが固定したものになるなら、ただの偶像になってしまうと言う事です。たとえ深い神体験によって出来上がったものであっても、それを固定してはならないと思います。何故なら神はどんなに優れたイメージでもその中におさめられる方ではないからです。
「あなたはいかなる像も造ってはならない」と言う戒めは、固定した神のイメージを持つことも禁じているものだと思います。
神の似姿に造られた人間が自分の頭で神をとらえようとすると、逆に自分に似せて神を造ってしまう傾向が強いから神は「いかなる像も造ってはならない」と厳しく警告してくださいました。
そこで自分の持っている神のイメージを常に見直していくことは必要でしょう。でも何に基づいてそれを見直していけばよいでしょうか。
「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示したのである」(ヨハネ1:18)
このお言葉で言われている「独り子である神」とは「肉となって、わたくしたちの内に宿られた」(ヨハネ1:14)イエス・キリストです。イエス・キリストこそ私たちに神を示してくださる方です。言葉とわざ、またその生活や人に対する態度など、すべては神を示すものです。「御子(イエス)は、目に見えない神の生き写し」です。(コロサイの信徒への手紙1:15)御子は神の栄光の輝き、神の本性の完全な具現」です。(ヘブライ人への手紙1:3)
ある時弟子のフィリッポの「主よ私たちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言う願いに答えてイエスはこうお答えになりました。「わたくしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたくしたちに御父をお示しください』と言うのか。私が父におり、父が私におられることを、あなたが信じないのか」(ヨハネ14:8-10)
イエスを「知る」ことは御父を知ることであり、またイエスを「見る」ことは御父を見ることであると言うのです。「もしあなた達が私を知るなら、私の父をも知るであろう」(ヨハネ14:7)
したがって、それぞれ持っている神のイメージを見直すには、イエスが示してくださる神のお姿を常に見つめていくならば、安全な道を歩んでいることになります。