神父様からのメッセージ

イエス様の嘆き

 エルサレムのために嘆き悲しむイエス。

 「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で殺す者よ、めん鶏が雛を羽根の下に集めるように、私はお前の子らを何度も集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられる」(ルカ13,34-35.マタイ23,37-38)。「エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。「もしこの日にお前も平和への道をわきまえていたら...しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が…お前とそこにいるお前の子らを地に叩きつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れて下さるときをわきまえなかったからである」と。(ルカ19,41-44)

 度重なる神様からの働きかけにも関わらず、滅びへの道を進むエルサレムのために泣き悲しむイエスは神様のお心を表しておられます...永遠の滅びへの道を歩んでいる人間のために、泣き悲しむ神様のお心です。神様は「罰する」方ではありません。神様は一人一人の人間を限りなく愛しておられる方です。神は「そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された…神が御子を世に遣わされたのは...御子によって世が救われるためである」(ヨハネ福音書3,16-17)。神は「私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡した方」です。(ローマ信徒への手紙8,32)。「神は私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになった」方です。(ヨハネの第1の手紙4,10)

 上記のお言葉からよくわかるように、神様は「憐れむ」方、人を救うために「その御子さえ惜しまず、死に渡された」方です。

 私はそれだけ愛しておられる人を罰する神を考えることができないと思います。それなら、地獄についてどう考えればよいでしょうか…人間に自由意志をお与えになった神様はそれを侵害することをなさらず、自由な答えを待っておられます。ところが、無知や愚かさゆえに、滅びへの道を選び、神からの度重なる呼びかけに死ぬまで応じない人もいます。地獄はその人の「自業自得」と言っていいかも知れません。

 福音書は地獄のことを「外の暗闇」(マルコ8,12;マタイ22,13)と呼び、「燃えさかる炉」(マタイ13,42;24,5)、「蛆がつきることも、火が消えることもない」(マルコ9,48)と言っています。地獄に落ちる人は、その火の中で「泣きわめいて歯ぎしりするだろう」と書いてあります。(マタイ13,42;24,51)

 上記のお言葉は何を意味するだろう。私の捉え方は次の通りです。自分の愚かさゆえに、取り返しがつかない選択をした自分に対しての怒り、また、神からの絶えることのない働きかけや警告にも関わらず、かたくなに、とんでもない方向に向かって最後まで走ってしまったことの後悔と悔しさを意味する言葉と思います。それぞれの生き方を振り返って、正すべき所があれば、今のうちに正したいものです。せっかく洗礼の最大のお恵みを賜った私たちは、イエズス様が示してくださる進路をそれてしまえば、それこそ最も不幸なことではないでしょうか。