全世界に行って、すべての造られたものに福音をのべ伝えなさい(マルコ16,15)
「信仰年」の残りは、あとわずかとなりました。11月24日、王であるキリストの祭日で終わります。信仰者の私たちの刷新と福音宣教に派遣されていることの使命の再認識が「信仰年」が定められた目標だったと思います。
「福音」とは「良い知らせ」を意味します。ところで、私たちはこの「良い知らせ」の内容を正確に捉えているでしょうか。私たちが信じている神はどういう方でしょうか。正しい神理解を持つために、神ご自身のなさった「自己啓示」に聞き入る努力が必要でしょう。
なお、神様の「自己啓示」は聖書に書き記されています。
「神は、むかし預言者たちを通して、色々なときに色々な方法で先祖たちに語られたが、この終わりの時代には、御子を通して私たちに語られました」(ヘブライ人への手紙1,1)
そこで、神の「自己啓示」のいくつかのお言葉を選んで、私たちが信じている神はどういう方なのかをもう一度聴くことにしましょう。
まず、モーセが体験した神を紹介しましょう。
「どうか、あなたの栄光をお示し下さい」というモーセのお願いに、神は「私はあなたの前に私のすべての善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する・・・あなたは私の顔を見ることはできない。人は私を見て、なお生きていることはできないからである」と、お答えになりました。(出エジブト記33,18-20)
神のお答えにある「善い賜物」とは神のなさった業、被造物界のことです。被造物界は、その創り主である神の知恵と力を語るものです。ここで、ガリレオ・ガリレイがクリスティーナ夫人への手紙の中に書いた言葉が思い出されます。「神様は2冊の書物を与えて下さいました。その2冊の書物とは霊感によって書かれた聖書と被造物界です。この二つの書物を通して神は“自己啓示”を行っておられます。」と。
また、モーセが神様にその名を尋ねたとき、「私はある。私はあるという者だ」というお答えを受けました。(出エジプト記3,14)その意味は、自ら存在するもので、すべての存在の源であるということです。
さらに、「私と民の苦しみをつぶさに見、その叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、私は降って行き、彼らを救い出す」というお言葉もモーセは聞いたと書いてあります。(出エジプト記3,7-8)「痛みを知った」とは、聖書的な意味で、「知る」とは、ただの知識ではなく、「身に感じる」意味があります。人間の苦しみは神の苦しみとなるということです。
「モーセの歌」(申命記32章)の中でも、モーセは自分の神体験を語っています。
「主は荒野で彼(イスラエル)を見出し 獣の吠える不毛の地で彼を見つけ、彼を囲い、いたわり、ご自分の瞳のように守られた。鷲が巣を揺り動かし 雛の上を飛びかけり 羽を広げて捕らえ 翼に乗せて運ぶように ただ主のみ、その民を導かれた」(32,10-12)。大変美しい比喩をもって、神がイスラエルの上にそそがれた慈しみを歌っています。
つづく・・・