キリスト教的死の意味
キリスト教的死は肯定的な意味をもっています。
人間には寿命があって、その間私たちは変わり、老いていきます。そして、地上の全ての生き物のように、命の終わりには死がやって来ます。この事実を思うとき、私たちは自分の人生をまっとうする為に限られたひと時しかないことに気づきます。
死において、神は人間をご自分のところに呼び寄せられます。このことを信じているキリスト者は死に対して使徒パウロのように「この世を去って、キリストと共にいたいという熱望」を体験することがあります。
『私は神様を見たいのです。見るためには、死ななければなりません』(アビラの聖テレジア)
『私は死にません。命に入るのです』(聖テレーズ)
死に関するキリスト教的見方は、次の祈りに美しく表現されています。
『信じる者にとって死は滅びではなく、新たな命への門であり、地上の生活を終わった後も、天に永遠の住みかが備えられています』。
この祈りの由来は使徒パウロの次の言葉にあります。
『私たちの地上の住みかである幕屋(体)が滅びても、神によって建物が備えられていることを、私たちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。...私たちはいつも心強いのですが、体を住みかとしている限り、主から離れていることも知っています。目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。私たちは心強い。そして体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます』(2コリント5,1-2)。
命は神様からの尊い預かり物です。人間の私有物ではありません。預かり物として、命を大切にしなければなりません。従って、殺人や人工妊娠中絶はもちろんのこと、自死も安楽死も命の主である神様の権利を侵害することになります。