「私を見たから信じたのか。見ないで信じる人は幸いである」
弟子の一人、トマスへのイエスのお咎めの言葉です。実は、弟子たちにとってイエスの復活を信じることは難しかったようです。復活の晩、初めて弟子たちに現れた時、イエスは彼らの不信仰とかたくなな心をお咎めになるくらいです。「復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである」と、マルコ福音書(16,14)に書いてあります。
彼らは、イエスこそイスラエルを開放してくださると望みをかけて、一緒にエルサレムにのぼってきたが、イエスの受難、十字架の死、葬りを目撃したとき、イエスへの期待も信頼も喪失してしまいました。
トマスの態度は、復活したイエスに出会う前の弟子たちの心境を浮き彫りにしていると思います。(ヨハネ福音書20,24-29参照)
復活の晩、イエスが弟子たちに現れたとき、トマスは皆と一緒にいませんでした。彼は「私たちは主を見た」という仲間の証言を聞いても、信じることができませんでした。皆がトマスを説得しようとしたでしょうが、彼は「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘の跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れてみなければ、私は決して信じない」と、固く拒否しました。彼にとって、傷跡を見ただけではイエスが復活したことを信じるには確かな根拠にはなりません。その傷に手を触れなければ、決して信じないというのです。
そこで8日の後、トマスも皆と一緒にいたとき、イエスはまた来て、皆の真ん中に立ち、トマスに「あなたの指をここにあてて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と。トマスは、要求していた証拠を目の当たりにして、前に立っておられる方が、受難にいたるまで生活を共にしてこられたあのイエスが復活したことを認めることができました。「私の主、私の神」と言って、トマスは素晴らしい信仰告白をします。復活したイエスを「主」と呼び、「神」と認めるようになりました。そのときイエスはトマスに、「私を見たから信じたのか。見ないで信じる人は幸いである」とお答えになったのです。
私たちは復活されたイエスを見ないで、信じることができたのです。この私たちが、使徒たちよりも「幸い」だとイエスは宣言されたのです。信仰の恵みを心から感謝したいと思います。