神父様からのメッセージ

神の痛み

 「神の痛み」この言葉を聞いて驚く人も多いと思います。神の痛みは愛の痛みです。その愛が限りないものなら痛みも限りないはずです。愛は神の病ということもできます。神にも「地獄」があるでしょうか。ずっと前のことですが、次の言葉を読んだことがあります。「悪魔はある日こういうことを私に言った。神にも地獄がある。人に対する愛はそうである」と。ニーチェの言葉だったかなと思いますが、この言葉を読んで衝撃を受けた覚えがあります。

 たしかに福音(ヨハネ3,14-21)において、人をその胸に抱きしめたいあまり、すべてを投げ出す神の愛の深さ、その無限さが語られています。『神は、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された・・・御子によって世が救われるためである』と、イエスご自身の言葉として記されています。さらに、ご自身が世を救うために、何をしなければならないかということもイエスは述べておられます。『モーセが荒野で蛇をあげたように、人の子もあげられなければならない』と。ご自身が十字架にあげられなければならないということです。なぜそういうことになっているでしょうか。答えは次の使徒パウロの言葉にあります。

 「神は、私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された」(ロマ書8,32)

 「神は私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をおつかわしになりました」(1ヨハネ4,10)

 「罪と何の関わりのない方を、神は私たちのために罪となさいました」(2コリント5,21)

 「キリストは、私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いからあがないだしてくださいました」(ガラテヤ3,13)

 愛は神を駆りたてたのです。御独り子がこの世におくられたのは、すべての罪とその罪が引き寄せている呪いをご自分の身に引き受けて、あがないのいけにえとして十字架の上でご自身を捧げるためです。

 『わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか』という十字架上のイエスの叫びは、その身にのしかかっている罪と呪いの耐えられないほどの重さを物語っていると思います。

 神はこれぼどに人を愛しておられます。それでも人が滅びてしまうなら、それは神のこころの深い痛みとなるはずです。

 十字架を見つめながら、神の愛の深さとその愛の痛みを思いめぐらす度に、少しもお返しできない悲しみにかられます。そのとき、わたしの救いはその悲しみにある、と自分自身に言い聞かせている次第です。