父なる神
イエスの教えの中心には父なる神があります。
旧約聖書には、すでに神を父とみなす伝統がありましたが、イエスには自分独自の神との関係、神経験、そしてそこからの神理解があり、それが彼の人格の源泉となっております。
イエスは神にむかって“アッバ”という語りかけをもって祈っています。“アッバ”とは“パパ”に相当する幼児語です。このような卑近な言葉で、神に祈ることは他に類例がなく、イエスがいかに神との独自で親密な交わりをもっていたか、また無条件に神に依存し信頼していたかが伺えます。
それだけではなくイエスは、私たちにも同じ語りかけをもって祈るように促しています。“祈るときは、こういいなさい。父よ”(ルカ11,2)。福音書においてイエスは神のことを語るとき、何度も“あなたがたの父”という呼び方をしています。初代教会の信徒も“アッバ、父よ”という語りかけをもって神に祈っていたことが使徒パウロの手紙(ローマ8,15;ガラテヤ4,6)に書いてあります。
地上のものを「父」と呼んではならない。あなたがたの父は天の父お一人だけである”。(マタイ23,9)神は私たちが地上で経験することがないような慈愛深い父であることを、イエスは説得しようとします。イエスの教えは“あなたがたの父”がいかに慈しみと配慮、また赦しに満ちた方であり、信頼に値する方であるかを説くことに徹しています。神が誰にでも無条件で寛大に恵みを与える方であり、またご自分から離れていった人の立ちかえりを待つだけではなく、一生懸命に呼びかける方であるということは、福音書において説かれています。
“神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである”(ヨハネ3,16-17)。イエスご自身のお言葉です。
また、使徒パウロはローマの信徒への手紙の中で(8,32)次の言葉を記しています。“私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方(神)は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないはずがありましょうか”。
十字架に架けられたイエスのお姿は、神の愛の深さの最大の証です。