主イエスはまことに復活された
復活の喜びを皆様と分かち合いたいと思います。
“週のはじめの日の晩、弟子たちと仲間が集まっていたところ、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らはおそれおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いをおこすのか。私の手や足を見なさい。まさしく私だ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見える通り、私にはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。”(ルカの福音書24章36-43節)
弟子たちは、受難と復活の予告を3回ほど、イエスご自身の口から聞いていたにもかかわらず、いざとなった時、“みんなイエスを捨てて、逃げてしまった”(マルコの福音書14,50)。その時から、彼らは自分の無力さを思い知らされ、人間の力では抜け出すことのできない絶望の闇の中にもがいていたに違いありません。ところが、復活のイエスに出会ったとき、底なしの闇が、一瞬にして光に変えられた体験であったと思います。
この日から、40日にわたって彼らは復活のイエスに何度も出会うことができたと“使徒言行録”に書いてあります。
“イエスは苦難を受けた後、ご自分が生きていることを数多くの証拠をもって使徒たちに示し、40日にわたって彼らに現れ、神の国について話された”と。(1,3)
さて、イエスの復活が私たちの心を喜びと希望で満たす理由は、使徒パウロの次の言葉に示されています。
“実際に、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべてのひとが死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです”(1コリント信徒への手紙,15,20-22)
イエスの復活が、私たちの復活のさきがけとなっているということです。
さらに、イエスの復活が新しい創造の始まりとなっていることを指摘したいと思います。イエスが“週のはじめの日”に復活されたと、福音書に書いてあります。この日は日曜日にあたりますが、福音記者がこの表現を選んだことに深い意味があると言われています。
この表現が“天地創造”の物語の冒頭の“はじめに神は天地を創造された”という言葉を連想するものだからです。福音記者が“週のはじめの日”という表現を選んだ理由は、イエスの復活が新しい創造のはじまりであるということを読者に伝えるためです。
つまり、イエスの復活は神が預言者イザヤを通してなさった約束の実現の始まりであるということです。
“見よ、私は新しい天と新しい地を創造する”(イザヤ,65,17)
そして、イエスの復活の後、使徒ヨハネが“見た”という新しい天と新しい地は神の約束の実現が始まっていることを示す言葉です。
“私は新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去っていき、もはや海もなくなった”(黙示録21,1)
なお、イエス様はその受難と復活を通して、新しい天と新しい地を作るための道を示してくださいました。それは愛の道です。この新しい創造はまだ進行中です。人間はみんな、それぞれの信仰を問わず、この新しい創造に協力するように呼ばれているのです。