クリスマスの大きな喜びをあなたに
“私は、民全体にあたえられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町(ベツレヘム)で、あなたがたに救い主がお生まれになった。”(ルカ福音書 2,10-11) 羊飼いたちに主イエスの生誕を告げた神の使いたちの言葉です。
臨月の身であるマリアを連れて,ナザレというガリラヤの町から、ユダヤのベツレヘムまでの長い旅に出かけたヨセフは何を考えてそんなことをしたのでしょう。ベツレヘムへの旅を余儀なくされていた彼は、神様がきっと臨月のマリアが泊まるのにふさわしい場所を用意してくださると思っていたでしょうか。
ところが、ベツレヘムのW宿屋には彼らのために場所がなかった”(ルカ 2, 7)とあります。彼らのために場所がなかったという言葉の意味はなんでしょうか。
もしかしたら、宿屋には場所があったのかも知れませんが、宿の主人たちは、身なりのまずしく、その上臨月のマリアの姿に、宿を断ったのかも知れません。
宿を断られたヨセフとマリアが見つけたのはひとつの馬小屋でした。考えてみれば、宿で断られたおかげで、イエス様は人が込み合う場所の騒がしさとは無縁の静けさの中で生まれることになりました。
まさに“サイレント・ナイト”となりました。物言わぬ動物たちとお告げを受けて駆けつけてきた数人の羊飼いは、赤ん坊の産声に聞き入ることができたでしょう。
神の子イエスが馬小屋でお生まれになることは、父なる神の御はからいによることだと思います。当時の社会から疎外されて、社会の隅に細々と暮らしを立てていた羊飼いを真っ先に招こうと思っておられた天の御父のはからいであったことに間違いないと思います。羊飼いたちは宿屋に入ることを許されなかったでしょう。羊を追って野山を旅しながら、羊と寝起きしている彼らは宿屋に入れなかったでしょう。
考えてみれば、クリスマスと言われるこの夜にお生まれになった赤ちゃんは、その一生を通じて、小さな人、しいたげられている人、苦しんでいる人のそばに立つことを選んだ方です。
神、すなわち無限で、永遠の全能な存在者が、人を救うために、弱く傷つきやすい幼子になったことを信じるなんて、おかしいと思う人もいるかも知れません。ところが私たちはそこに秘められている深い神秘に心を開いて、神の限りないへりくだりをたたえています。使徒パウロが書いているように、Wキリストは、神の身分でありながら、・・・自分を無にして、しもべになり、人間と同じものになられました。人間の姿で現れ、死に至るまで、それも十字架上の死に至るまで、従順でした”(フェリペ 2, 6-8)
人間の理解を超える神の愛の深さ。私たちを罪から救うために人となり、あらゆる点において私たちと同様に、試練に合われ、ついに十字架の上に命をささげてくださった神の愛の深さを信じることができたことを心から感謝しております。