神父様からのメッセージ

預言者イザヤの神体験!

 預言者イザヤは紀元前 740 年 (25 歳ぐらいのとき) にエルサレムの神殿において、預言者の召命を授かって、約 40 年間に渡って予言職に従事された方です。

 “イザヤの書”として伝えられてきた預言書は全巻イザヤのペンから出たものではりません。3 部に渡って、それぞれの歴史的背景や文体から見ると、第 1 部 (第 1 章から第 39 章まで) がイザヤ自身の手によって書かれたものと認められますが、第 2 部 (第 40 章から第 55 章まで) と第 3 部 (第 56 章から第 66 章まで) は約 200 年後にそれぞれ別の手によって書かれたものです。しかしながら、この第 2 部と第 3 部もイザヤの精神を引き継いでいるところから、言わばイザヤ学派の作品と認められて、イザヤの書として伝えられてきました。

 さて、イザヤは最初の不思議な神体験の中で、預言者の召命を受けたと述べています (第 6 章)。その時彼は神の栄光を見て、深い畏敬の念に打たれて、叫びました…「災いだ。私は滅ぼされる。私はけがれた唇の者。けがれた唇の民の中に住む者。しかも私の目は王なる万軍の主を仰ぎ見た」と。イザヤはモーセが神から言われたお言葉 「あなたは私の顔を見ることはできない。人は私を見て、なお生きていることはできないからである。」(出エジプト記 33-20)というお琴b画を知っていたからこの叫びをあげたのです。ところが、そのとき神の御使いは、祭壇からとった炭火でイザヤの唇に触れて「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪はゆるされた」と言ったそうです。

 預言者イザヤのこの神体験の意味は何だったのだろう。

 神はゆるす方。自分の罪に気づき、それを素直に認める人はすべての咎は取り去られ、罪はゆるされるという神体験だったと思います。

 この神体験があったからこそ、イザヤはイスラエルのもろもろの罪に対して次の言葉を記すことができました。「論じ合おうではないか、と主は言われる。たとえ、お前たちの罪が緋のようでも雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても羊の毛のようになることができる。」(1-18)

 神は、罪にけがれた人の心を清めることができるということです。