「主の晩餐」とミサ
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」
また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。 これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。(後略)」
(マタイによる福音書26章26-27節)
新約聖書のこの記述は「主の晩餐」と呼ばれる箇所です。レオナルド・ダ・ビンチの有名な絵画「最後の晩餐」の場面と聞けば、ピンと来る人も多いのではないでしょうか。
弟子の一人であるユダの裏切りによって祭司長たちに引き渡される前の晩、イエスは弟子達とともに食事をしました。この食事は日常的な夕食ではなく、「過越の食事」といって、その起源は旧約の時代にまで遡るユダヤ民族の重要な行事の一つでした(「過越」についてはまた別の機会に述べたいと思います)。
この食事の席で、イエスはパンと葡萄酒を弟子達に分け与え「わたしの記念としてこのように行いなさい(コリントの信徒への手紙第11章24-25節)」と言われました。それから現代までおよそ2000年、キリスト教徒は教派によって形は異なりますが、その教えを守り続けてきました。それが「ミサ(正教会では「聖体礼拝」、プロテスタントでは「聖餐式」)」です。
カトリックにおいてミサは「感謝の祭儀」とも言います。「イエス・キリストの死と復活を記念し、その復活の恵みに与る、喜びに満ちた感謝の祭儀」であることを示しています。そしてその中核となるものこそ、前述の「主の晩餐」の再現(ミサ式次第内において「感謝の典礼」と呼ばれる箇所)なのです。
では何故「感謝の典礼」と呼ばれるのでしょうか。イエスは晩餐において、自らの体と血であるとしたパンと葡萄酒を「感謝」を捧げて祝福し、弟子達に与えました。この「感謝」とは「祈り」と同義語であるとされ、このようにして聖別されたパンと葡萄酒こそが聖餐であるとされました。特にカトリックにおいてはこのパンと葡萄酒は「聖変化」によってキリストの御体と御血そのもの(御聖体)となるとしており、この後の聖体拝領を「キリストをいただく」と表現することもあります。
「感謝」とは祈りであり、且つキリストをいただくための重要な秘跡です。そしてそれを分かちあう(聖体拝領)ことで、信徒は結束をより新たにし、イエス・キリストと一つに結ばれます。そしてその苦難と復活の栄光を思い起こし、そこから生まれる救いの恵みに「感謝」するのです。
最初にイエスの御手からパンと葡萄酒を頂いた弟子達にも、苦難の日々が待ち受けていました。しかし彼らはイエスの派遣により、苦難を乗り越えて教えを広め、やがて栄光の中に受け入れられました。その原動力には、きっとあの晩餐の情景があったことでしょう。
現代に生きる今のキリスト教徒も、ミサ(またはそれに相応するもの)を行うことによって、その意志を連綿と受け継いでいるのです。