04. まことの愛
ある大学の先生が、結婚反対を表明する学生たちと話し合った。学生たちは、男女のカップルを支える本質はロマンチックな心情であって、それが無くなってしまったら、虚ろで単調な夫婦生活に入るよりは関係を解消した方がましだと主張した。
先生は、彼らの言うことを注意深く聴いたあとで、個人的体験を語った。
「私の両親は結婚して55年連れ添った。ある朝、母は父の朝食を作りに階下へ下りる途中、心筋梗塞に襲われ転倒した。父は母に駆け寄り、やっとのことで母を抱き起こし、ほとんど引きずるようにして車に乗せた。猛スピードで病院へ車を走らせている間じゅう、父の心は悲しみのあまり張り裂けそうだった。病院に着いたとき、母はすでに死んでいた。」
「葬式の間、父は喋らなかった。目が虚ろだった。ほとんど泣きもしなかった。その晩、私たち子らは父のもとに集まり、悲しみと懐かしさに胸をつまらせながら母の思い出を語り合った。私には神学者の兄がいて、父は、死と永遠について何か話してくれとその兄に頼んだ。兄は死後のいのちについて話し始めた。父はたいへん注意深く聴いていたが、突然、『墓場へ連れて行ってくれ』と言い出した。」
「『父さん』、と私たちは答えた。『夜中の11時ですよ。こんな時間に墓場へ行くなんて出来ません』。父は声を上げ、輝きを失った目で言った。『口ごたえしないでくれ。お願いだ。55年もの連れ合いを失ったばかりの男に口ごたえしないでくれ…』。みんなはハッと息を飲んで黙った。だれももう反対しなかった。私たちは墓場へ行き、管理人に許可をもらい、懐中電灯を掲げて母の墓石の前に立った。」
「父は墓石をやさしく撫で、祈った。そして、その光景を感動して見ていた子らに言った。『いい55年だった。分るか? 母さんのような女性と人生を共にすることがどんなことか分らなければ、だれもまことの愛については語れない』。父は言葉を切り、顔を拭った。『母さんと父さんはいつでも一緒だった。喜びも苦しみも。おまえたちが生まれたときも、父さんが職を失ったときも、おまえたちが病気になったときも…』」
「父は続けた。『いつも一緒だった。おまえたちが卒業する時は一緒に喜んだ。愛する者との別れには手を取り合って泣いた。たくさんの病院の待合室で一緒に祈った。二人で苦しみや悲しみを支え合った。互いの過ちは抱き合って赦した…。』」
「『いいか、みんな、母さんが逝って、父さんは今うれしいと思う。なぜだか分るか。父さんより先に逝ったからだ。父さんを埋葬したり、ひとりぼっちで残されたりするつらさや悲しみを味わわなくてすんだからだ。そういう苦しみを味わうのは父さんの方でいい。父さんはそのことで神さまに感謝している。母さんを苦しませるようなことだけは、断じてあってほしくなかった。母さんをほんとうに愛しているから…。』」
「父が話し終えたとき、私たち兄弟はみんな涙を流していた。私たちは父を抱きしめ、父は私たちを慰めた。『大丈夫だ、みんな。家へ帰ろう。いい一日だった。』」
「その夜、私はまことの愛の何たるかを理解した。それは、ロマンチックな心情から程遠く、官能とも無縁のもの。むしろ、神の似姿である我々だからこそ可能な、心と心の通功のようなものだ。感覚をはるかに超えた、何ものにも代えられない絆なのだ。」
先生が話終えると、学生たちは反論することが出来なかった。そのような愛は圧倒的に彼らを超えていた。たとえ今すぐに受け入れる勇気がなくとも、彼らは、たった今聴いた愛がまことの愛だと感じることはできた。先生は、人生で一番大切なものを若者たちに教えたのである。
【聖書から】
信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。(エフェソ3:17-19)
夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。(エフェソ5:25)