ユスト高山右近
2 月 3 日は、福者ユスト高山右近殉教者の記念日です。そこで右近にゆかりのある金沢教会では、毎年 2 月の第一土曜日(司教様の都合で変わることもありますが)に、右近の記念ミサをおこなっております。
昨年は、日本の二つのテレビ局(テレビ金沢と BS11)とアメリカの EWTN という世界的な有線放送局が右近をテーマにした番組制作のために、金沢教会に来られました。右近ブームが巻き起こるかどうかは分かりませんが、列聖に向けて、高山右近への関心が高まることが期待されます。
ところで、皆さんは高山右近についてはどの程度ご存じでしょうか。1543 年生まれとすると、10 歳のときに洗礼を受けています。その受洗は父ダリオ高山飛騨守によるものです。ダリオ夫人や家族、それに 150 人ほどの家臣が一緒に洗礼を受けたと言われており、右近も自分の意思には関係なく、キリスト教徒になったと言えます。
しかし、彼の心の中に蒔かれた信仰の種は、戦国の荒波の中で見事に成長していきます。ここでは詳しく述べることはできませんが、1573 年には和田惟長の高山父子暗殺未遂事件があります。闇の中での切り合いとなり、右近は首の半分を切断されるという瀕死の重傷を負いますが、奇跡的に回復します。1578 年には直接の主君である荒木村重の織田信長への謀反があります。妹と息子を人質に取られていた右近は、苦渋の選択を迫られます。ゲッセマネの園のキリストのように、城内で必死に祈り、その結果、彼は死を覚悟し、死装束で信長の前に出ます。1587 年には豊臣秀吉が伴天連追放令を発令。棄教を迫られた右近は、明石 4 万石の大名の地位を捨てます。この時のすばらしい言葉が遺されています。
1614 年には、徳川家康の禁教令が出され、右近は国外追放の処分を受けます。前田利家に客将として迎えられ、26 年間いた金沢を、旧暦 1 月 26 日(2 月 11 日)、真冬の雪の中、家族と共に去ります。長崎からは貧弱なジャンク船で 20 日間かけてフィリピンにたどり着きます。この時、マニラ湾では祝砲が打たれ、市民から熱烈な歓迎を受けます。スペイン総督は右近に一定の禄を与えようとしますが、彼はそれをきっぱりと拒絶します。
その後、熱病にかかり、40 日後、2 月 3 日に死去。波乱に満ちた 63 歳の生涯を閉じます。
第二ヴァチカン公会議後、信徒使徒職という言葉が使われるようになりましたが、右近こそ、日本における信徒使徒職の第一号ではないでしょうか。
パウロ 九里 彰 神父
